岩手に行ってきました。
3月に行く予定でしたが、震災の影響で今週になりました。
おじいちゃん、おばあちゃん、福島から来た親戚に会うことができました。
当時のことを聞くと
「上下にうねるようなとてつもない揺れのせいか、そこにあった重い石がその場を跳ねたんだ。」
「家の前の道路を、自衛隊の車や救急車がたくさん走っていった。」
「停電になるし、ガスは止まるし、携帯の電波もダメ。ストーブもつかなかったから、とにかく暗くて寒かった」
など、切々と話してくれました。
福島から来た親戚は
「ガイガーカウンター(放射線量測定器)を買ったんだが、家の周りで測ると常に警報が鳴る。」
「誰も外で遊んでいないよ。自転車に乗せてってせがまれるけど、乗せてやれないんだ。」
「俺たちはモルモットみたいだな。試されてる。」
「二人目の子どもはもうないよ。原発のせいで。」
6歳になるいとこからも、こんな言葉が。
「なんでぼくがリンゴジュースを飲むか分かる?それはね、リンゴジュースは体の放射線量を下げるからなんだよ!」
これが子どもたちの言う言葉なのでしょうか。
2日目に、釜石と陸前高田を見てきました。
写真を撮ってきましたので、画像を載せます。
毎年行っていた陸前高田の街は、もうなにもありませんでした。
車を走らせて見えてくるのは、もともと住宅街だったとは思えない瓦礫の山々。
これでも分別され、片付けられたほうなのだそう。
ここにたくさん家が立ち並んでいて、ここにお店があったのに。
何もかもが流され、地盤沈下でまだ水が地面に残っている場所がたくさんありました。
2年前の、同じ場所の写真がでてきました。つなビィより。
この松林はもうありません。
地盤沈下でここは全て海に沈み、松の木は海水を吸って死んでしまいました。
賑わっていた物産館もありません。
先ほど載せた1,2番目の写真が、この物産館とちょうど同じ位置から撮ったものです。
この鯉のぼりが再び空をはためくのはいつになるのかな
貝を食べた思い出の場所もありません。ハマグリが半生でちょっと苦かったっけ。
そこで働いていた人たちはどこへ行ってしまったのでしょう。
これだけでも物凄くショックで、どうにもならないのに、釜石と三陸はさらにひどかったのです。
これが釜石の中心地。釜石漁港を支えた街並みです。
アーケード街はもちろん、一帯全てが冠水し、勢いのある津波にのみこまれました。
車で海から遠くへ行っても、ずーっと続く全壊全損の家。
土台を残して消えてしまった家、赤い旗がかけられた土地、バツ印が書かれた家の壁。
水圧で大きくへこみ、原形をとどめていないシャッターの数々。
見渡す限り、そんな風景ばかりでした。
周りを見れば、逃げ場はありません。
山までは遠く、その山も急な崖でとても登れません。
高台も少なく、少し小高い程度では波にのまれてしまいます。
トンネルには水が到達した高さの跡。
たくさんヒビの入った道路、地震で歪み、でこぼこになったガードレール。
まだ少ししかない仮設住宅。
なかでも印象的だったのが
赤旗がたてられ、土台しか残っていない家に車いすがおかれていて、その車いすに花が手向けられていた風景です。
なすすべがなかったのです。
5か月経ったいま、おばあちゃんは言います。
「まだまだたくさん瓦礫が積まれているし、水も引いてない。元通りとは言えないかもしれない。
でも自衛隊の人がたくさん働いてくれたおかげで、5か月でここまでいったんだよ。
瓦礫がたくさん混ざった水の中を、棒でかきまわして人を救ってくれたんだって。
それを毎日毎日、広い範囲で続けていると、頭がおかしくなっちゃうよね。実際にそうやって亡くなった自衛隊員もいるんだわ。
昔誰かが 自衛隊はいらない、暴力装置だ と言ってたわよね。
わたしも地震がくるまで、自衛隊ってなんであるんだろうと思っていたの。
でも自衛隊は絶対に必要よ。この1件ほど、心の底からありがたく思ったことはないもの。
いざ災害が起きたら真っ先に活動できるのって この国では自衛隊だけなんだから。」
今年のこの帰省は、一生忘れないものになりました。
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